2018年12月29日土曜日

意味調べるモザンビークの歴史

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モザンビークの歴史


ネイ: :en:History of Mozambique oldid=850904477 より翻訳、画像追加と加筆あり


[[ファイル:Mozambique. LOC 2012592490.tif|thumb|right|300px|モザンビークの地図、1961年。]]
本項では、'''[[モザンビーク]]の歴史'''(モザンビークのれきし)について述べる。モザンビークは[[ポルトガル海上帝国]]の植民地、時期、ポルトガルの構成国を経て、1975年に独立した。

== 植民地以前のモザンビーク ==
=== 石器時代 ===
2007年、[[カルガリー大学]]のフリオ・メルカデル()がモザンビークの[[マラウイ湖|ニアサ湖]]近くにある深い[[石灰岩]]洞窟で10万年前の[[石器]]を発見した。この石器は野生の[[モロコシ属]](現在[[サブサハラアフリカ]]で小麦粉、パン、ポリッジ、アルコールに使用される小麦の原型にあたる)が[[ヤシ酒]]用のヤシ、[[エンセーテ]]、[[キマメ]]、野生オレンジ、アフリカの「ポテト」などとともに[[ホモ・サピエンス]]によって食されていたことを示した。これは栽培化される以前の穀類が人類によって食されていた直接の証拠としては最初期のものである<ref>Liquid error: wrong number of arguments (1 for 2)</ref>。

=== 古代史 ===
}}
現モザンビークに当たる地域に居住した最初の住民は[[狩猟採集社会|狩猟採集民族]]での先祖にあたる[[サン人]]である。1世紀から5世紀まで[[バントゥー語群]]を話す部族が北から[[ザンベジ川|ザンベジ河谷]]を通って移住してきて、やがて高地や沿岸部にも移住した。バントゥー語群を話す部族は主に[[農民]]と鉄工であった。また8世紀には[[アラブ人]]が貿易を行うために現れた。

=== 文化間の接触 ===
[[ポルトガル王国]]の[[探検家]][[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が1498年にモザンビーク海岸に到着した時点で、モザンビーク沿岸部や島嶼部にある[[アラブ人]]の貿易用の集落がすでに数世紀存在しており、政治上は現地の[[スルターン]]が支配していた。アラブ人歴史家の[[マスウーディー]]は947年にはアフリカのソファの地(、現モザンビークにあたる地域で、モザンビークの名前自体もポルトガル人が到着した当時、モザンビーク地域を統治していた[[シャイフ]]のに由来する)にイスラム教徒が存在すると記録した<ref>Liquid error: wrong number of arguments (1 for 2)</ref>。現地住民の大半がイスラム教徒になった。モザンビーク地域は1世紀の[[エリュトゥラー海案内記]]にも記述されているように、[[紅海]]、[[アラビア半島]]の[[ハドラマウト]]地域、[[インド]]海岸で構成された貿易圏の南西の端に位置した。

== ポルトガル領モザンビーク(1498年 - 1975年) ==
}}
[[ファイル:Mozambique n2.jpg|thumb|250px|[[モザンビーク島]]はモザンビーク北部の[[ナカラ]]海岸、モスリル湾口にある小さな島。ヨーロッパ人がその島を発見したのは15世紀末のことだった。]]
1500年頃より、ポルトガルの交易所と要塞がアラブ人の貿易と軍事覇権を破り、モザンビークはヨーロッパから東回りの海路の[[寄港地]]となった。

[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]が航海中の1498年に[[喜望峰]]を越えたことでポルトガルはモザンビーク地域の貿易、政治、社会に参入した。ポルトガルは16世紀初頭に[[モザンビーク島]]と港口都市の[[ソファラ]]を支配するようになり、1530年代にはポルトガル商人やを試みる者が内陸部に進出し、[[ザンベジ川]]沿岸のと[[テテ (モザンビーク)|テテ]]で駐留軍と交易所を設け、金の交易を独占しようとした<ref name="auto">[http://bit.ly/2GLbh67 Arming Slaves], ''Arming slaves: from classical times to the modern age'', Christopher Leslie Brown, Philip D. Morgan, Gilder Lehrman: Center for the Study of Slavery, Resistance, and Abolition. Yale University Press, 2006 , </ref>。

ポルトガルは交易所や集落を集約して合法化すべく、ポルトガル人集落と政府を結ぶ(土地貸し下げ)を発行した。プラゾは最初はポルトガル人を対象としたが、種族間の通婚によりアフリカ系ポルトガル人やアフリカ系インド人がプラゾを持つようになり、彼らはと呼ばれるアフリカ人奴隷の大軍で守られた。モザンビークでは歴史的に奴隷制度が存在しており、アフリカ諸部族の部族長、イスラム教徒のアラブ人商人、ポルトガル人などのヨーロッパ人商人の間で人身売買が行われた。部族長たちは他部族との戦争で捕虜をとり、捕虜をモザンビーク人奴隷としてプラゼイロ(、プラゾの所有者)に売却した<ref name="auto" />。

ポルトガルの影響力は徐々に増えたが、その権力は限定的であり、自治権を与えられた入植者や官僚によってふるわれた。ポルトガルは1500年から1700年までの間、沿岸貿易からアラブ人を追い出すことに成功したが、1698年ので(現[[ケニア]]領)にある[[ジーザス要塞]]が[[オマーン]]に奪われると、アラブ人の追い出しが満足に行えなくなり、本国でも[[ポルトガル領インド|インド]]や[[極東]]、との貿易のほうが実入りが多かったため投資がそちらに集中され、アフリカへの投資が減った。モザンビークでは1752年にモザンビーク総督府が設置され<ref name="MOFA"></ref>、1898年にはモザンビーク島からロレンソ・マルクス(現[[マプト]])に遷都した<ref name="MOFA" />。

[[ファイル:TT CMZ-AF-GT E 2-1 10 81 - Oficina de Tipografia da Escola de Artes e Ofícios.jpg|thumb|250px|ポルトガル語の印刷と組版講習、1930年撮影。]]
20世紀初までに、ポルトガルはモザンビークの大半の行政権を、、といった私立の会社に移譲した。これらの会社は大半がイギリスが出資、支配しており、モザンビークから隣のイギリス植民地である[[南アフリカ連邦]]、[[北ローデシア]]、[[南ローデシア]]への鉄道を敷設した。奴隷制度は法的には廃止されたものの、これらの勅許会社は強制労働政策を実施し、近隣のイギリス植民地の鉱山や[[プランテーション]]に安価な労働者を提供した。例えば、最も儲かった会社であるザンベジア会社は一部小規模なプラゼイロ領を買い上げ、資産を守るために軍の駐屯所を設置した。これらの勅許会社は[[ベイラ (モザンビーク)|ベイラ]]と南ローデシアをつなぐ鉄道など道路網と港口を建設して、貨物を輸出する経路を構築した<ref name="The Cambridge history of Africa">[http://bit.ly/2GLbhD9 The Cambridge history of Africa], The Cambridge history of Africa, John Donnelly Fage, A. D. Roberts, Roland Anthony Oliver, Edition: Cambridge University Press, 1986, , </ref><ref name="The Third Portuguese Empire, 1825-1975">[http://bit.ly/2Rk4mVA The Third Portuguese Empire, 1825–1975], The Third Portuguese Empire, 1825–1975: A Study in Economic Imperialism, W. G. Clarence-Smith, Edition: Manchester University Press ND, 1985, , </ref>。

しかし、経営状況が振るわず、[[アントニオ・サラザール]]の[[エスタド・ノヴォ]]体制で[[コーポラティズム]]が採用され本国から[[ポルトガル海上帝国]]の経済への支配を強めようとしたため、多くの会社の利権が更新されなかった。例えば、ニアサ会社の利権は1929年に、モザンビーク会社の利権は1942年に切れた。また1951年にはポルトガル領アフリカ植民地が「ポルトガル海外州」に改称された<ref name="The Cambridge history of Africa"/><ref name="The Third Portuguese Empire, 1825-1975" /><ref>[http://bit.ly/2GNdOfX Agência Geral do Ultramar]</ref>。

== モザンビーク独立戦争(1964年 - 1974年) ==
[[ファイル:Portuguese colonial war-en.svg|thumb|250px|[[ポルトガルの植民地戦争]]時点のポルトガル領アフリカ植民地]]

[[共産主義]]と[[反帝国主義|反植民主義]]の思想がアフリカで広まると、モザンビーク独立を支持する秘密の政治運動が現れた。これらの運動では統治当局が主にモザンビーク在住のポルトガル人に利するために政策を制定したため、モザンビークの部族統合や現地コミュニティの発展はほとんど注目されなかったと主張した<ref>Dinerman, Alice (26 September 2007). [http://bit.ly/2RoWHoW Independence redux in postsocialist Mozambique] Liquid error: wrong number of arguments (1 for 2). ipri.pt</ref>。これにより先住民族は国から制度的に差別され、巨大な社会的圧力に晒されたという。

1962年に結成された<ref name="MOFA" />[[モザンビーク解放戦線]](FRELIMO)は1964年9月にポルトガル統治に対するゲリラ活動を開始した。この活動は[[ポルトガル領アンゴラ]]と[[ポルトガル領ギニア]]ですでに始まったゲリラ活動と合わさって、いわゆる[[ポルトガルの植民地戦争]](1961年 - 1974年)になった。軍事の視点からみると、ポルトガル正規軍は人口の中心地への支配を維持したが、ゲリラ部隊は北部と西部の農村地帯と部族地帯でポルトガル正規軍の影響力を削ごうとした。ポルトガル政府はFRELIMOへの対応として社会発展や経済増長に有利な状況を作り出そうとした<ref></ref>。

== 独立(1975年) ==
10年間続いた散発的な戦闘と[[リスボン]]での左翼軍事クーデター([[カーネーション革命]])によりポルトガルが民主化し、[[エスタド・ノヴォ]]体制がに代わると、FRELIMOはモザンビークを支配した。その後の1年間にモザンビークのポルトガル人25万人の大半がモザンビーク政府に追放されるか恐怖して出国し、1975年6月25日にはモザンビークが独立した。FRELIMOの一員で当時無名だった[[アルマンド・ゲブーザ]]の主導で、ポルトガル人に24時間以内に最大20キログラムの荷物を持って出国するよう命じた法律が可決されたため、多くのポルトガル人は財産を持ち出せず無一文でポルトガルに帰国した<ref>Couto, Mia (April 2004). [http://bit.ly/2RhZMXR Carnation revolution]. ''Le Monde diplomatique''</ref>。

== 内戦(1977年 - 1992年) ==

1975年、[[南アフリカ共和国]]の[[アパルトヘイト]]政府との支持を受けて、[[反共主義]]団体の[[モザンビーク民族抵抗運動]](RENAMO)が設立された。RENAMOが輸送ルート、学校、クリニックに襲撃を仕掛けた結果、モザンビークは[[モザンビーク内戦|内戦]]に陥った。米国では[[中央情報局]](CIA)と保守主義者がロビー活動を行い、RENAMOへの支持を促進しようとしたが、これは[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]が「RENAMOの承認も、RENAMOとの交渉もしない」と述べて拒否した<ref>[http://bit.ly/2GLbiHd ''Deciding to Intervene''], p. 204.</ref><ref>[http://bit.ly/2RpvcLO ''Deciding to Intervene''], p. 207.</ref><ref>[http://bit.ly/2GNdPk1 ''Africa: The Challenge of Transformation'']</ref>。

[[ファイル:Samora Machel Plane Wreck.jpg|thumb|right|200px|マシェルが乗っていたTu-134の残骸、にて。2006年撮影。]]
1984年、モザンビークは[[ピーター・ウィレム・ボータ]]首相率いる南アフリカ政府とを締結、南アフリカがRENAMOへの支援を取りやめる代償としてモザンビークが[[アフリカ民族会議]]を追放した。最初は両国とも協定を履行したが、やがて両国とも協定に違反していたことが明らかになり、戦闘が継続した。1986年10月19日<ref name="MOFA" />、[[サモラ・マシェル]]が南アフリカ領内で航空機事故を起こして死亡した()。確固とした証拠はなかったが、多くの人々は南アフリカ政府の関与を疑った。マシェルの後任は[[ジョアキン・アルベルト・シサノ]]が務めた。内戦自体はRENAMOとFRELIMO双方で多くの人権侵害が起こった<ref name="[hawaii.edu">http://bit.ly/1I9HT0x Statistics of Democide: Genocide and Mass Murder since 1900 by , Lit Verlag, 1999.</ref><ref>Geoff Hill, "A Crying Field to Remember," ''The Star'' (South Africa), November 13, 2007.</ref><ref>Hoile, David. MOZAMBIQUE: A NATION IN CRISIS. Lexington, Georgia: The Claridge Press, 1989. pp. 89, 27-29.</ref><ref>Gersony 1988, pp. 34-36.</ref>。

南アフリカからRENAMOへの支援が提言するとともに、FRELIMO政府とRENAMOの直接交渉が1990年に始まり、1990年11月には新憲法が施行された。モザンビークは[[複数政党制]]を採用、選挙を定期に行い、民主の権利を保証した。[[国際連合]]の支持を受けてが交渉したは1992年10月4日にシサノ大統領とRENAMOの指導者の間で締結され、10月15日に発効した。[[国際連合モザンビーク活動]](ONUMOZ)が設立されて民主政への2年間の移行期を監督した。ONUMOZ部隊は1995年初までに撤収した。

== 民主政(1994年以降) ==
は公正だったと広くみられ、シサノ大統領率いるFRELIMOが勝利し、ドラカマ率いるRENAMOが野党となった。

1995年11月、モザンビークは[[イギリス帝国]]領になったことのない国としてはじめて[[イギリス連邦]]に加盟した<ref name="MOFA" />。1996年に結成された[[ポルトガル語諸国共同体]]にも加盟した<ref name="MOFA" />。[[東南部アフリカ市場共同体]]には加盟したものの1997年に脱退している<ref name="MOFA" />。隣国に避難していた難民170万人以上が1995年中までにモザンビークに帰国、また400万人のが自宅に戻った。

1999年12月のではFRELIMOが再び勝利、RENAMOは選挙不正があったと主張し、内戦状態への逆戻りになると脅したが、最高裁判所まで上告して敗北した後はそれを撤回した。

[[ファイル:Memoria Carlos Cardoso.jpg|thumb|right|カルロス・カルドーゾの記念碑、2014年撮影。]]
2000年初、[[サイクロン]]がモザンビークを襲い、を引き起こした。これにより数百人が死亡するとともにすでに不安定なインフラ状況に追い打ちをかけた。外国からの救援物資が届いたが、FRELIMOの指導者によって着服されたと広く疑われ、それを調査していたジャーナリストのが殺害され、その死因には疑問が残った。

シサノは2001年に大統領の3期目に出馬しないと述べ、自身よりも長く大統領に留まった国家元首を批判した。これは[[ザンビア]]大統領[[フレデリック・チルバ]](在任:1991年 - 2002年、2001年当時は2期目で3期目に向けて出馬を検討中)と[[ジンバブエ]]大統領[[ロバート・ムガベ]](在任:1987年 - 2017年、2001年当時は3期目)に向けた発言とされる。2004年12月1日から2日にかけてのではFRELIMOの[[アルマンド・ゲブーザ]]が得票率64%で勝利、RENAMOのドラカマ候補は32%にとどまった。議会ではFRELIMOが160議席を獲得、RENAMOと小政党数党の連合は残りの90議席を獲得した。ゲブーザは2005年2月2日に大統領に就任した。彼はで再選された<ref name="MOFA" />。もまたFRELIMOが勝利、[[フィリペ・ニュシ]]が大統領に当選した<ref name="MOFA" />。

内戦以降は[[モザンビークの経済]]が回復したが、これは隣国の南アフリカ、そして東アジアからの投資者と観光客によるところが大きい。またポルトガル人も戻ってきてモザンビークに投資し、イタリア人からも投資された。石炭と[[天然ガス]]が成長して主要産業になり、内戦終結から20年間はが3倍に成長した<ref>Liquid error: wrong number of arguments (1 for 2)</ref>。

独立戦争と内戦を経たモザンビークでは多くの地雷が残っていたが、22年間の努力により2015年には地雷の完全撤去が宣言された<ref>Liquid error: wrong number of arguments (1 for 2)</ref>。

== 脚注 ==


== 関連項目 ==
*[[アフリカ史]]
*[[モザンビークの大統領一覧]]
*
*[[モノモタパ王国]]
*モザンビークの都市史
**
**

== 外部リンク ==

*[http://bit.ly/2GJFDpx U.S. Relations With Mozambique] - [[アメリカ合衆国二国間関係ファクトシート]]より
* - 20世紀初のカトリック視点での記事




[[Category:モザンビークの歴史|*]]
[[Category:アフリカ史]]

http://bit.ly/2RhZOir

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