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水野忠篤 (美濃守)
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'''水野 忠篤'''(みずの ただあつ、 - [[天保]]14年([[1843年]])[[9月27日 (旧暦)|9月27日]])は[[江戸幕府]]の[[旗本]]。[[紀伊新宮藩]]主[[水野重央]]の子・水野定勝の家系にあたる。
[[文政]]4年(1821年)に将軍[[徳川家斉]]によって[[御側御用取次]]に取り立てられ、「西の丸派」の一員として権勢を振るい、[[林忠英]]・美濃部茂育とともに「天保の三佞人」と呼ばれた。家斉が逝去すると、[[天保]]12年(1841年)の[[水野忠邦]]の[[天保の改革]]では公金横領などの罪状で罷免され、家斉の時代に加増された5000石も収公された。さらに翌13年(1842年)には[[信濃国]][[諏訪藩]]に配流された。
同14年(1843年)、[[高島城|諏訪高島城]]南の丸で死去し、近くの[[地蔵寺 (諏訪市)|地蔵寺]]に葬られたが、[[嘉永]]3年(1850年)に赦免され江戸小川町の浄泉院に改葬された。
== 参考文献 ==
*「[[寛政重修諸家譜]] 巻第337」
*「江戸幕府旗本人名辞典」 [[原書房]] 1989年
[[Category:水野氏|もりえた]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:1843年没]]
[[文政]]4年(1821年)に将軍[[徳川家斉]]によって[[御側御用取次]]に取り立てられ、「西の丸派」の一員として権勢を振るい、[[林忠英]]・美濃部茂育とともに「天保の三佞人」と呼ばれた。家斉が逝去すると、[[天保]]12年(1841年)の[[水野忠邦]]の[[天保の改革]]では公金横領などの罪状で罷免され、家斉の時代に加増された5000石も収公された。さらに翌13年(1842年)には[[信濃国]][[諏訪藩]]に配流された。
同14年(1843年)、[[高島城|諏訪高島城]]南の丸で死去し、近くの[[地蔵寺 (諏訪市)|地蔵寺]]に葬られたが、[[嘉永]]3年(1850年)に赦免され江戸小川町の浄泉院に改葬された。
== 参考文献 ==
*「[[寛政重修諸家譜]] 巻第337」
*「江戸幕府旗本人名辞典」 [[原書房]] 1989年
[[Category:水野氏|もりえた]]
[[Category:江戸幕府旗本]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:1843年没]]
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