2018年9月22日土曜日

意味調べるアルミニウムの歴史

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アルミニウムの歴史


ネイ: :en:History of aluminium oldid=860644783 より翻訳、一部加筆あり

[[ファイル:Tovarna glinice in aluminija Kidričevo - kupi aluminija 1968.jpg|thumb|[[押出成形]]したアルミニウムの棒、1968年撮影。]]
本項では、'''[[アルミニウム]]の歴史'''(アルミニウムのれきし、)について述べる。アルミニウムは[[原子番号]] 13、[[原子量]] 26.98 の元素であり、[[標準状態]]では明るい銀色の金属である。アルミニウムが[[地殻]]で3番目に多い元素であるため<ref name="Greenwood1997"></ref>、人類の活動にも広く使われた。

金属という形のアルミニウムが人類に使われる歴史はそれほど長いものではないが、アルミニウムの鉱石である[[ミョウバン|白礬]]/明礬は[[紀元前5世紀]]には知られており、古代から染料や都市の守備に使われていた。特に中世ヨーロッパにおいて明礬は染料として広く使われた。[[ルネサンス]]期の科学者は明礬を新しい土類の塩と信じており、[[啓蒙時代]]になってこの「新しい土類」とは新しい金属の[[酸化物]]と証明された。1825年、デンマークの物理学者[[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]はこの新しい金属の発見を発表、続いてドイツの化学者[[フリードリヒ・ヴェーラー]]がエルステッドの発表に基づいて研究を行い、金属アルミニウムを発見した。

純粋な金属アルミニウムは精練が難しく、珍しかったため、発見直後の金属アルミニウムは価格が金よりも高く、1856年にフランスの化学者が初の工業用精錬法を開発してようやく下がった。1886年にフランスの工学者[[ポール・エルー]]とアメリカの工学者[[チャールズ・マーティン・ホール]]が[[ホール・エルー法]]を開発したことでアルミニウムが一般人にも使えるほど広まり、ホール・エルー法は現代のアルミニウム精錬でも使われる。

これらの製法が使用され、アルミニウムが大量生産されるようになったため、アルミニウムは航空、建築、[[包装]]など工業と日常生活に広く使われている。アルミニウムの生産は20世紀に指数関数的に増え、1970年代には商品取引所で扱われる商品になった。1900年のアルミニウム製造量は6,800[[トン]]だったが、2015年には57,500,000トンと数千倍に増えた。

== 最初期の利用 ==
[[ファイル:Alum.jpg|thumb|left|upright|[[ミョウバン|明礬]]]]
アルミニウムの歴史は[[ミョウバン|明礬]]の使用で始まった。明礬の記述が最初に文書に残されたのは、紀元前5世紀の[[古代ギリシア]]歴史家[[ヘロドトス]]による記述だった。古代人にとって、明礬は[[媒染|媒染剤]]、薬、そして(要塞を敵の放火から守るための)木の防火塗料であり、[[ウェットエッチング]]にも使用した。しかし、金属アルミニウムは知られていなかった。[[ローマ帝国]]の歴史家[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス]](大プリニウス)は銀と同程度に明るいが遥かに軽い金属に関する物語を記録している。この金属は皇帝[[ティベリウス]](在位:14年 - 37年)に提出されたが、ティベリウスは自身の金銀財宝の価値が下がらないようその金属の発見者を殺害させたという</ref>。}}。一部の文献はこの金属がアルミニウムだった可能性を示唆したがにも出版されたがほとんど忘れ去られた<ref name="Duboin1902" />。フランスの化学者アンドレ・デュボワン()は[[ホウ砂]]、[[酸化アルミニウム|アルミナ]]、そして少量の[[クロム酸塩|二クロム酸塩]]と[[二酸化ケイ素|シリカ]]の混合物を[[るつぼ]]で加熱すると(混ざり物はあるが)アルミニウムが生成されることを証明した。イタリアでは[[ホウ酸]]が多いため、ホウ酸、[[炭酸カリウム|カリ]]、粘土が石炭による[[酸化還元反応|還元反応]]でアルミニウムが作成される可能性がある<ref name="Duboin1902"></ref>。}}、異説もある<ref>|volume=19|pages=37–40|accessdate=28 October 2017}}</ref>。中国では[[晋 (王朝)|晋]]の代にアルミニウムを含む合金を作成した可能性があるLiquid error: wrong number of arguments (1 for 2)</ref>。}}。

[[十字軍]]以降、明礬は国際貿易の商品の1つになり、ヨーロッパの織物業では欠かせない存在になった<ref name="ClaphamPower1941"></ref>。明礬は15世紀中期に[[オスマン帝国]]が輸出関税を大幅に上げるまで、[[地中海]]東部からヨーロッパに輸出された。ローマ教皇[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]を名付け親としたジョヴァンニ・ダ・カストロ()が1460年にローマ近くの[[トルファ]]で埋蔵量の多い明礬鉱山を発見すると、彼は興奮してピウス2世に「今日はトルコ人に対する勝利をもたらします」と報告した</ref>。}}。

== 明礬の性質の確立 ==
[[ファイル:Antoine lavoisier color.jpg|thumb|right|upright|[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]は[[酸化アルミニウム|アルミナ]]が何らかの金属の酸化物であると確立した。]]
[[ルネサンス]]初期まで、アルミナの性質は不明のままだった。1530年頃、スイスの物理学者[[パラケルスス]]は明礬を([[硫酸塩]])と証明、「明礬の土の塩」であると主張した。1595年、[[神聖ローマ帝国]]の医師、化学者[[アンドレアス・リバヴィウス]]は明礬と[[硫酸鉄(II)|緑ウィトリオル]]と[[硫酸銅(II)|青ウィトリオル]]が同じ酸と違う土で構成されると示し<ref name="Weeks1968"></ref>、明礬を構成した未発見の土の名前については「アルミナ」を提唱した。1702年、神聖ローマ帝国の化学者[[ゲオルク・シュタール|ゲオルク・エルンスト・シュタール]]は明礬の未発見の土が石灰か白亜と同じ種類であると述べ、以降半世紀もの間多くの科学者が同じ間違いを犯した。1722年、神聖ローマ帝国の化学者は明礬の土が別の種類であると信じると宣言した。1728年、[[フランス王国|フランス]]の化学者[[エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレール]]は明礬が未知の土と[[硫酸]]で構成されると主張したが、その土を焼くと[[シリカ]]が残ると主張するという間違いを犯した。1739年、フランスの化学者ジャン・ジェロ()は明礬と[[アルカリ]]が化学反応を起こして出来た土が粘土の土類と同じであると証明した。1746年、神聖ローマ帝国の化学者は明礬の溶液にアルカリを加えたときに生成される[[沈殿|沈殿物]]が石灰とも白亜とも違うものであると示した<ref></ref>。

1754年、神聖ローマ帝国の化学者は硫酸で粘土を沸かし、続いてカリを加えることで明礬の土を生成した。彼は新しい土の溶液に[[炭酸水]]、カリ、またはアルカリを加えることで明礬が生成されることを発見した<ref></ref>。彼はその土が乾いている状態では酸に溶けることを発見したため、その土は[[塩基|塩基性]]であると形容した。またその土の[[塩化物]]、[[硝酸塩]]、[[酢酸塩]]について記述した。1758年、フランスの化学者はアルミナ)、フランス語圏では「アルミナ」()を用いるが、同じ物質を指している。}}が金属質の土を指していると記述した。1767年、[[スウェーデン]]の化学者[[トルビョルン・ベリマン]]は硫酸で[[明礬石]]を沸かした後、カリを加えることで得た溶液から明礬を[[結晶化]]する方法に関する記事を出版した。またアルミニウムの硫酸塩とカリウムの硫酸塩の化学反応で明礬を生成、明礬が[[複塩]]であると証明した。1776年、神聖ローマ帝国の薬学者、化学者[[カール・ヴィルヘルム・シェーレ]]は明礬とシリカの両方が粘土に由来、明礬に[[ケイ素]]が含まれないことを証明した<ref name="Lennartson2017"></ref>。前出のエティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールの誤りは1785年、神聖ローマ帝国の薬学者、化学者がシリカとアルカリから明礬の土を生成できないことを示したことで覆された<ref name="Wiegleb1790">|page=357}}</ref>。

スウェーデンの化学者[[イェンス・ベルセリウス|イェンス・ヤコブ・ベルセリウス]]は1815年<ref></ref>に[[酸化アルミニウム|アルミナ]]の[[化学式]]をAlO<sub>3</sub>と示唆したが、正しい化学式のAl<sub>2</sub>O<sub>3</sub>は1821年にドイツの化学者が確立し、後にベルセリウスがアルミニウムの[[原子量]](27)を計算するのに役に立った。

== 金属アルミニウムの生成 ==
[[ファイル:Hans_Christian_Ørsted_daguerreotype.jpg|thumb|left|upright|金属アルミニウムの発見者[[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]。]]
1760年、フランスの化学者はアルミナが金属質の土と信じていると宣言、アルミナを金属に還元しようとしたが失敗した。彼が実際に使用した手法は不明だったが、彼は当時知られていた還元法を全て使用したと主張した。明礬を炭か何らかの有機物と混合して、溶剤として塩か炭酸を使い、木炭の火でできるだけ熱く焼いた可能性が高い。1782年、フランスの化学者[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]はアルミナが金属の酸化物で、その金属と[[酸素]]の親和力が高くて、当時知られていた還元剤では還元できないと記述した。彼はそれをアルミーヌ()と命名した<ref name="AluminiumJP"></ref>。

1790年、[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]の化学者とはテオドール・バロン・デノヴィユの実験を温度を大幅に上げて再現した。実験の成果物に小さな金属粒が見られ、彼らはそれが長らく制作が試みられてきた金属と信じていたが、後にほかの化学者による実験でそれが木炭と[[骨灰]]の不純物であると証明された。神聖ローマ帝国の化学者[[マルティン・ハインリヒ・クラプロート]]は後に「もし金属の本質(もしそれがあれば)が明らかにされる状況にある土類が存在したら、大規模でも小規模でも全ての方法で最も熱い火で試され、還元するための実験に晒される土類が存在したら、それはアルミナである。しかし、その金属化を目撃した者はいなかった。」と記述した。ラヴォアジエは1794年に<ref name="Guyton" />、フランスの化学者[[ルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボー]]は1795年にそれぞれ木炭と純酸素を使用してアルミナを白い液体に溶かしたが、金属は発見できなかった<ref name="Guyton"></ref>。[[アメリカ合衆国|米国]]のは1802年に[[酸水素ガス#酸水素ガス吹管|酸水素ガス吹管]]でアルミナを溶かし、モルボーと同様の成果を得たが、やはり金属は発見できなかった。

[[ファイル:Friedrich_W%C3%B6hler_Litho.jpg|thumb|left|upright|アルミニウムの性質を研究した[[フリードリヒ・ヴェーラー]]、1856年。]]
1807年、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の化学者[[ハンフリー・デービー]]はアルカリ電池でアルミナの[[電気分解]]に成功したが、形成した金属には[[第1族元素#アルカリ金属|アルカリ金属]]の[[ナトリウム]]と[[カリウム]]が含まれ、デービーにはアルミニウムをそれらから分離する手立てがなかった。彼は続いて金属カリウムとアルミナの混合物を加熱、[[酸化カリウム]]を形成したが、アルミニウムは発見できなかった。翌1808年、デービーは別のアルミナ電気分解実験を行い、アルミナが電極で分解されることを確立したが、形成した金属が鉄と合金を形成してしまい、デービーはその分離ができなかった<ref name="Davy1812"></ref>。デービーはさらなる電気分解実験を試み、鉄でアルミニウムを収集しようとしたが、やはりその分離に失敗した。デービーは実験中の1808年に新しい金属の名前に「アルミアム」<ref name="AluminiumJP" />()を提唱<ref name="Davy1808"></ref>、1812年には「アルミナム」<ref name="AluminiumJP" />()を提唱、現代にいたるまで使用された名前を創作した<ref name="Davy1812"/>。他の科学者は「アルミニウム」<ref name="AluminiumJP" />()を使用したが、米国では現代まで(アルミナム)が使われている<ref name="AluminiumJP" /><ref name="Quinion2005"></ref>。

1813年、米国の化学者[[ベンジャミン・シリマン]]はヘアの実験を再現、アルミニウムの小粒を作り出すことに成功したが、小粒はほぼ即座に燃えてしまった。

1824年、デンマークの物理学者、化学者[[ハンス・クリスティアン・エルステッド]]は金属アルミニウムの作製に成功したと主張した。彼はの[[塩化アルミニウム]]とカリウムの合金で化学反応を起こさせ、見た目が[[スズ]]に似ている金属の塊を得た<ref name="(København)1827">|title=Det Kongelige Danske Videnskabernes Selskabs philosophiske og historiske afhandlinger|trans-title=The philosophical and historical dissertations of the Royal Danish Science Society|url=https://books.google.com/books?id=L2BFAAAAcAAJ&pg=PR25|year=1827|publisher=Popp|language=da|pages=XXV–XXVI}}</ref><ref name="woehler"></ref>。彼は1825年に結果を発表、新金属のサンプルを展示した。1826年、「アルミニウムは金属の光沢があり、やや灰色で、水中ではかなり緩やかに分解される」と記述した。この記述は彼が得た金属が純アルミニウムではなく、アルミニウムとカリウムの合金であることを示している。エルステッドも自身がアルミニウムを得たとは信じず<ref name="FontaniCosta2014"></ref>、この発見の重要性を低くみた<ref name="Venetski" />。また別の文献ではエルステッドが財政問題により研究を継続できなかったとしている<ref name="Ancient Chinese aluminium" />。エルステッドが研究をヨーロッパ大衆に知られていないデンマークの雑誌で発表したため、アルミニウムの発見者とされないことが多く<ref name="FontaniCosta2014" />、初期の文献の一部はさらにエルステッドがアルミニウムの分解に成功しなかったと主張した<ref name="Larned1923"></ref>。

ベルセリウスは1825年にアルミニウムの分離を試みた。彼は[[氷晶石]](Na<sub>3</sub>AlF<sub>6</sub>)と似ているK<sub>3</sub>AlF<sub>6</sub>を[[るつぼ]]の中で用心深く洗い、実験前の物質の化学式も正しく認識した。彼は金属を発見できなかったが、実験は成功にかなり近く、後に度々再現に成功した。ベルセリウスが失敗した理由はカリウムを大量に使ったことで、溶液がアルカリ性を持ちすぎ、形成したアルミニウムを全て溶かしたことである。

1827年、ドイツの化学者[[フリードリヒ・ヴェーラー]]はエルステッドの実験を再び行ったが、アルミニウムは発見できなかった。彼は後にベルセリウスに手紙を書き、「エルステッドがアルミニウムの塊と仮定したものは確実にただのアルミニウムを含有するカリウムである」と述べた<ref name="Bjerrum1926"></ref>。}}。彼は続いて似たような実験を行った。その内容は無水の塩化アルミニウムとカリウムを混ぜることであり、アルミニウム粉末の作製に成功した<ref name="woehler" />。彼は研究を続け、1845年に小さなアルミニウムの塊を作製することに成功、その[[物性]]を記述した。しかし、ヴェーラーの記述は不純物を含むアルミニウムを示した。ヴェーラーなどほかの科学者がエルステッドの実験を再現できなかったことはエルステッドが金属アルミニウムの発見者とされない理由の1つになり、逆にヴェーラーは1845年の実験の成功とその詳細が発表されたことで金属アルミニウムの発見者とされた<ref name="Woehler Oersted Fogh"></ref>。エルステッドとヴェーラーの実験結果が異なった理由は1921年にデンマークの化学者ヨハン・フォー()が発見、彼はエルステッドが大量の塩化アルミニウムとカリウムの含有量が少ないカリウム合金を使用したため、実は実験に成功していたことを示した。

== 貴重なアルミニウム ==
[[ファイル:NATIONAL MUSEUM, NEW. AIRVIEW. AT REAR.jpg|thumb|right|[[ワシントンD.C.]]の[[ワシントン記念塔]]に使われた、重さ100[[オンス]]の笠石は1884年にアルミニウムで作製された。それまで鋳造された最も大きなアルミニウムの塊であった<ref name="Binczewski"></ref>。]]
ヴェーラーの製法では大量のアルミニウムを作製できなかったため、アルミニウムは貴重のままであり、価格が金を越えるほどだった<ref name="Venetski" />。

フランスの化学者は1854年に[[科学アカデミー (フランス)|パリ科学アカデミー]]でアルミニウムの工業製法を発表した。塩化アルミニウムはヴェーラーが使ったカリウムよりも便利で安いナトリウムでも還元することができるのであった<ref></ref>。その後、アルミニウム棒は[[パリ万国博覧会 (1855年)|1855年のパリ万国博覧会]]ではじめて公開展示された<ref></ref>。展示では金属の名前が「粘土からの銀」とされ、すぐに広まった。フランス皇帝[[ナポレオン3世]]は当時の一般的な世帯の年収の20倍もかかったドビーユの研究に助成金を与えた。パリ万国博覧会以前にもナポレオンが宴会を行い、最も高貴なゲストにはアルミニウム製の食器が与えられ、一方それ以外のゲストは金製の食器を使用した<ref name="Venetski"></ref>。1855年から1859年まで、アルミニウムの価格は1[[ポンド (質量)|パウンド]]500米ドルから40ドルまでと、10分の1以下に下落した<ref name="Polmear2005"></ref>。しかし、ドビーユの製法でもアルミニウムの純度の高さが足りず、サンプルによって性質が異なった。

1856年、ドビーユは数人のパートナーとともに[[ルーアン]]の製錬所で世界初のアルミニウム工業生産を開始した。ドビーユの製錬所は1856年から1857年にかけてまず[[ナンテール]]のラ・グラシエール()に、続いてに移転した。その後は製錬所がフランスの社に買収され、やがて世界最大のアルミニウム工業生産会社に成長した。製錬所の技術は進歩を続け、1872年時点のサランドルでの産出量は1857年のナンテールのそれよりも900倍以上多かった。サランドルの製錬所は[[ボーキサイト]]を主なアルミニウム鉱物として使い、一方ドビーユなどの化学者は[[氷晶石]]を使おうとしたが、既存の技術を越えることはなかった。イギリスの工学者ウィリアム・ジャーハード()は1856年にロンドンの[[バタシー]]で氷晶石を原材料とする工場を建てたが、技術と財政問題により3年で廃業した。

ほかの化学者もアルミニウムの工業生産を試みた。イギリスのは1860年にアルミニウム生産を開始(1874年まで継続した)したとき、群衆に対し高価で珍しいアルミニウム製の[[シルクハット]]を振った<ref name="Howell2010"></ref>。イギリスの工学者ジェームズ・ファーン・ウェブスター()は1882年にナトリウムによる還元でアルミニウムの工業生産をはじめ、ドビーユのそれよりもはるかに純度の高いアルミニウムを生産した。1880年代にもいくつかのアルミニウム工場が設立されたが、いずれも電気分解による製造が現れると廃れた。

次にパリで行われた[[パリ万国博覧会 (1867年)|1867年の万国博覧会]]ではアルミニウムのケーブルと[[アルミ箔]]が展示され、[[パリ万国博覧会 (1878年)|1878年のパリ万国博覧会]]ではアルミニウムが未来のシンボルになった。

== 電気分解による生産 ==
[[ファイル:W9 Aluminiumwerk I Chemiepark.jpg|thumb|left|[[ドイツ帝国]]、、[[フランクフルト・アム・マイン]]、のアルミニウム工場、1915年建設。]]
アルミニウムがはじめて電気分解で生成されたのは1854年、ドビーユとドイツの化学者[[ロベルト・ブンゼン|ロベルト・ヴィルヘルム・ブンゼン]]がそれぞれ独自に行ったときだった。しかし、当時は電気の効率が低く、すぐにはアルミニウムの工業生産に使用されなかった。1870年に[[ベルギー]]の工学者[[ゼノブ・グラム|ゼノブ・テオフィル・グラム]]が[[ダイナモ]]を発明、1889年に[[ロシア帝国|ロシア]]の工学者がを発明してようやく変わり始めた。

アルミニウムの最初の工業(大規模)生産法は1886年に[[フランス第三共和政|フランス]]の工学者[[ポール・エルー]]とアメリカの工学者[[チャールズ・マーティン・ホール]]が開発した[[ホール・エルー法]]である。純アルミナの電気分解はアルミナの[[融点]]が極めて高いこと(2,072[[セルシウス度]])もあって現実的ではなかったが、エルーとホールは融解した氷晶石(融点1,102セルシウス度)でアルミナの融点を大きく下げられることを発見した。エルーはアルミニウムの需要がまだ低かったことと、サランドルの製錬所が製造工程の改善を目指していなかったことにより、長らく自身の発明への需要を見出せないでいたが、彼は1888年に友人とともにアルミニウム工業株式会社()を設立、同年にでアルミニウムの工業生産を開始した。このときは操業が1年間しか続かなかったが、同時期にパリでフランス電気冶金会社()が設立された。この会社はエルーの特許を買い上げ、彼を[[イゼール県]]にある製錬所の所長に任命した。この製錬所ははじめ[[アルミニウム青銅]]を大規模に生産、続いて数か月後に純アルミニウムを生産するようになった<ref name="h1"></ref>。

[[ファイル:50 Pfennig 1920.jpg|thumb|right|ドイツのアルミニウム製50硬貨([[パピエルマルク]])、1920年。]]
一方、ホールも同じ生産法で[[オハイオ州]]にある自宅でアルミニウムを生産した<ref></ref>、[[ロックポート (ニューヨーク州)|ロックポート]]の製錬所でも生産法のテストに成功した。続いて大規模生産に発展しようとしたが、既存の製錬所は生産法を劇的に変える必要があり、また大量生産がアルミニウム価格の下落を招くため、ホールの生産法を使用したくなかった。会社の総裁はホールの技術が同業他社に使われないよう、ホールの特許の買い上げを検討したほどだった。結局ホールは1888年に自分で[[アルコア|ピッツバーグ還元会社]]を設立、アルミニウムの大量生産を開始した。その後、生産技術はさらに進歩、新しい工場が建設された。

ホール・エルー法がアルミナをアルミニウムに変える手法である一方、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の化学者は1889年に[[バイヤー法]]という[[ボーキサイト]](鉄礬土)をアルミナに純化する手法を発見した。彼はボーキサイトをアルカリで焼結、水で洗浄した後、得た溶液を攪拌してを入れると、沈殿物が現れることを発見した。この沈殿物とは[[水酸化アルミニウム]]であり、加熱するとアルミナに分解される。その数年後にはボーキサイトに含まれるアルミニウムがアルミナの固体を分離した後に残ったアルカリに溶けることを発見、バイヤー法が工業で使用されるきっかけとなった。

現代の金属アルミニウム生産はバイヤー法とホール・エルー法に基づく手法を使用している。1920年には[[スウェーデン]]の化学者カール・ヴィルヘルム・セーデルベリ()率いる研究チームがホール・エルー法を改良した。それまでの電池の陽極はプリベークの石炭の塊から製造されたが、すぐに劣化して交換しなければならなかった。セーデルベリは特別な還元室で[[コークス]]と[[乾留液|タール]]の糊から連続した電極を製造した。この改良によりアルミニウムの産出量は大きく上昇した<ref name="aluminiumleader"></ref>。ほかにも1929年に日本で[[アルマイト]]処理が発明され<ref name="AluminiumJP" />、1936年には[[超々ジュラルミン]]という合金が開発された<ref name="AluminiumJP" />。

== アルミニウムの大量消費 ==
[[ファイル:Saucepans Into Spitfires- Aluminium Salvage in Britain, 1940 D735.jpg|thumb|left|[[第二次世界大戦]]中、イギリスは国中の家族からアルミニウム製の食器を集め、飛行機の建造に使用した<ref name="Thorsheim2015"></ref>。]]
}}
アルミニウムの価格は下落し、アルミニウムも1890年代までに宝飾、[[日用品]]、眼鏡フレーム、光学機械などと広く使用されるようになった。アルミニウム製の食器は19世紀末から製造されるようになり、20世紀初期には[[銅]]や[[鋳鉄]]製の食器を駆逐するに至った。同時期には[[アルミ箔]]が広まった。アルミニウムは柔らかく軽いが、すぐにほかの金属と合金を形成することで[[密度]]の低さを維持しつつ硬さを上昇させられることが発見された。アルミニウムがほかの金属と合金を形成できる能力は19世紀末から20世紀初にかけて多くの使い道がみつかった。例えば、[[アルミニウム青銅]]は曲げやすいバンド、シート、ワイヤーを製造するのに使われ、造船業や航空業で広く使われた。アルミニウムのリサイクルは20世紀初期から始められ、アルミニウムがリサイクルで劣化せず繰り返して使える<ref name="Lumley2010"></ref>こともあり広まった<ref name="Schlesinger2013"></ref>。この時点では工業用アルミニウムしかリサイクルされなかった<ref name="USGS" />。[[第一次世界大戦]]中、主要参戦国の政府は軽く強い機体を作るために大量のアルミニウムを輸入しようとし、工場に度々補助金と必要な給電システムを与えた<ref>Liquid error: wrong number of arguments (1 for 2)</ref>。当時の軍用航空機では1903年に発明された新しいアルミニウム合金である[[ジュラルミン]]が使用された。民用航空も機体にアルミニウムを使用した<ref name="transport" />。アルミニウムの生産量自体は戦中に頂点に達した。アルミニウムの1900年時点の世界生産量は6,800トンだったが、1916年にはじめて10万トンを超え、その後は一旦下がったがすぐに素早い増長に戻った<ref name="USGS" />。

20世紀の前半において、(1998年の米ドルを基準とする)アルミニウムの1トンあたり[[名目と実質 (経済学)|実質価格]]は第一次世界大戦中の大幅な価格増など一部の例外を除き、1900年の14,000ドルから連続して1948年の2,340ドルに下落した<ref name="USGS" />。20世紀中期にはアルミニウムが日常生活の一部になり、家庭用品の欠かせないコンポーネントとなった。アルミニウム製の[[貨車]]は1931年にはじめて現れ、車体を軽くしたことで積載量が増えた<ref name="transport" />。アルミニウムに耐食性があったため、1930年代に船の建築材の1つになり、1950年代初期にはそれが広く認知された<ref name="Vargel2004"></ref>。1930年代、アルミニウムは土木工学で使われる材料の1つになり、建築材料としても内装工事の材料としても使われた。軍事でも飛行機と戦車のエンジンに使われた。リサイクルから得られたアルミニウムはと[[スラグ]]がうまく除去されず、化学的制御も上手くなされなかったため、品質が一次生産のアルミニウムより劣るとされた。リサイクルは全般的には増えてきたが、アルミニウムの供給は一次生産に依存した。例えば、1930年代末に米国の電気価格が下落すると、多量のエネルギーが必要なホール=エルー法のコストが下がって産出量が増え、リサイクルの必要性が低減して量自体も下がった<ref name="Schlesinger20132"></ref>。消費者使用後のアルミニウムの大量リサイクルは1940年までに始まった<ref name="USGS" />。

[[第二次世界大戦]]中に生産量が再び頂点に達し、世界の生産量は1941年にはじめて100万トンを超えた。イギリスは野心的なアルミニウムのリサイクル計画を開始、[[航空機生産大臣]]の[[マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵)|ビーヴァーブルック男爵]]は大衆に航空機建造のために家庭にあるアルミニウムを寄付するよう呼びかけた<ref name="Thorsheim2015" />。[[ソビエト連邦]]は[[レンドリース法|武器貸与法]]で328,000トンのアルミニウムを得て<ref name="Tyson2010"></ref>、それを航空機と戦車のエンジンに使用した<ref name="Chandonnet2007"></ref>。武器貸与法がなければ、ソ連の航空業の効率は半分以上下がっていた<ref name="Weeks2004"></ref>。第二次世界大戦後は第一次世界大戦後と同じく、生産量が一時的に下落したが、その後は上昇を続けた<ref name="USGS" />。

== 商品取引 ==
[[ファイル:Drinking_can_ring-pull_tab.jpg|thumb|right|[[アルミ缶]]、2006年撮影。]]
20世紀後半、[[宇宙開発競争]]が始まった。世界初の[[人工衛星]]である1957年の[[スプートニク1号]]はアルミニウム製の半円が2つ合わさった形であり、それ以降の宇宙飛行体もほぼ全てがアルミニウム製である<ref name="aluminiumleader" />。[[アルミ缶]]は1956年に発明され、1958年には飲み物に使用されるようになった。また1960年代にの生産にアルミニウムが使われるようになった<ref></ref>。1970年代以降、高速列車はアルミニウムの軽さを買ってそれを車体に採用した。同じ原因により自動車のアルミニウム含有量が増えた<ref name="transport"></ref>。

1955年までに[[アルコア]](ホールのピッツバーグ還元会社の後身)、(元はピッツバーグ還元会社の子会社)、、、ペシネー(ペシネーとドビーユの製錬所を購入したアレスとカマルグ会社()の後身)、(エルーのアルミニウム工業株式会社の後身)6社がアルミニウム市場を86%と、ほとんどを占有した。1945年から30年近く、アルミニウムの消費量は毎年10%ほど増え、住宅建設、配線、アルミ箔、航空業などで使われた。1970年代初期にアルミ缶が飲み物に使われたことで需要が更に増えた。一方、アルミニウムの実質価格は技術革新によりアルミニウム抽出と処理コストが低下したことと、アルミニウムの生産量自体が増えたことにより下落を続けた(アルミニウムの生産量は1971年に1千万トンを超えた)<ref name="USGS"></ref>。

[[ファイル:Aluminium - world production trend.svg|thumb|left|upright=1.30|1900年から2015年までのアルミニウム産出量。]]
1970年代、アルミニウムの需要増により、アルミニウムは取引商品の1つになり、1978年に世界最古の工業金属取引所であるに入った<ref name="aluminiumleader" />。アルミニウムが取引商品になったことで取引に使われる通貨が米ドルになり、アルミニウム価格は米ドルの為替レートに影響されるようになった。しかし、質のより低い鉱床を利用する必要が生じたことと、原材料コスト(特にエネルギーのコスト)が増えたことにより、アルミニウムの純原価が増え、1970年代にはエネルギーコストの上昇によりアルミニウムの実質価格が上昇した。

[[ファイル:DillingenAluminiumSchrott.jpg|thumb|right|廃棄されたアルミニウム、2007年撮影。]]
1960年代末、工業生産の廃棄物が政府の注目を受け、リサイクルの推進と廃棄物の適正な処理を目指す一連の規制がなされた。アルミニウム業界もアルミ缶の規制を避けるべくアルミ缶の回収を推進した<ref name="Schlesinger20132" />。これによりアルミニウムのリサイクルが爆発的に増えた。例えば、米国ではアルミニウムの回収量が1970年から1980年まで3.5倍増え、1980年から1990年まで7.5倍上昇した<ref name="USGS" />。様々なアルミニウム製品のうち、アルミ缶は最も重要なものであり続けた<ref></ref>。また1970年代と1980年代にアルミニウムの一次生産コストが上昇したこともアルミニウムのリサイクルが推進された一因となった<ref name="Schlesinger20132" />。

実質価格の上昇と関税率の変更により、アルミニウム生産に関わる会社の市場占有率が再分配された。例えば、1972年時点でアメリカ合衆国、ソビエト連邦、日本の3か国が一次生産の6割近くを占め、アルミニウム生産でも6割に近かったが、2012年時点では1割を少し越える程度に下落した。生産はアメリカ合衆国、日本、西ヨーロッパから生産コストのより安いオーストラリア、カナダ、[[中東]]、ロシア、中国に移動した。20世紀末のアルミニウム生産コストは技術革新、エネルギーコストの低下、米ドルの為替率の変動、アルミナの価格変動に影響された。[[BRICs]]4か国の占有率は2000年から2009年まで、一次生産では32.6%から56.5%に増え、一次消費では21.4%から47.8%に増え、特に中国が資源の多さ、エネルギーの安さ、政府の施策により生産において大きな占有率を蓄積するに至り、消費でも1972年時点の2%から2010年時点の40%に増えた。2位の米国は11%で、それ以外の国は5%を越えなかった。米国、西ヨーロッパ、日本において、アルミニウムの大半が交通、土木工事、建設、包装で消費された。

アルミニウムの産出量は上昇を続け、2013年に5千万トンを突破、2015年には5,750万トンを記録した<ref name="USGS" />。

== 脚注 ==


== 出典 ==


== 参考文献 ==
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