2018年3月8日木曜日

意味を調べるアブー・ヤフヤー・ラシード・ティーンマリー

新規更新March 08, 2018 at 12:33PM
【外部リンク】

アブー・ヤフヤー・ラシード・ティーンマリー


ねをなふみそね: ページ「Abú Yahya」の翻訳により作成


'''アブー・ヤフヤー・ラシード・ティーンマリー'''([[アラビア語]]: '''ابو يحي محمد بن علي''', ''Abū Yaḥyà Muḥammad ibn ʿAlī ibn Abī ʿImrān at-Tinmalālī'')は、ムスリム統治時代の[[マヨルカ島]]における最後の[[ワーリー]](地方代官)であった人物。尊号にラシード、ニスバにティーンマリーがあり、1121年から1147年までの間、[[ムワッヒド朝]]の首都があった[[モロッコ]]のティーンマル([[ティンメル]])生まれであることが示唆される。父や祖父の名前も含めたイスムはムハンマド・ブン・アリー・ブン・ムーサーである。祖父ムーサーはアブー・イムラーンの尊号があった。キリスト教徒の文献には、Abu Iehie, Aboheihe と記載されている。

アブー・ヤフヤーは1208年にマラケシュにあったムワッヒド朝の宮廷からマヨルカ島のワーリーに任命される。アブー・ヤフヤーはムワッヒド朝のアミールには形式的な臣従の誓いを行ったに留まり、マヨルカ島において半自立的な政権を打ち立てた<ref name="Balaguer"></ref><ref></ref><ref></ref>。アブー・ヤフヤーの勢力はバレアレス諸島全域に及び、これらの島々をムワッヒド朝の名の下に支配した。アブー・ヤフヤー政権は1229年に[[アラゴン王]][[ハイメ1世 (アラゴン王)|ハイメ1世]]がマヨルカ島を征服するまで続いた。

マヨルカ島が陥落したときアブー・ヤフヤーの息子は3歳であった。ハイメ1世はアブー・ヤフヤーの息子を、実親と名付け親の名の下にキリスト教徒としての洗礼を行わせる儀式を行い、キリスト教に改宗させた。その上で、1250年に[[ゴトル]](Gotor)と[[イルエカ]](Illueca)を封地として与え、男爵位を授けた。当該男爵位はアブー・ヤフヤーの息子が初代になる。アブー・ヤフヤーの息子はハイメ・デ・ゴトル(Jaime de Gotor)と名乗り、マルティン・ロルダン(Martin Roldán)とマリア・ロペス・デ・ルナ(María López de Luna)の娘、エルヴィラ・ロルダン(Elvira Roldán)と結婚した<ref></ref><ref></ref>。ゴトルの名字を持つ家系は、父系を遡るとハイメ・デ・ゴトルが先祖にいる場合がある<ref></ref>

== 出典 ==


== 外部リンク ==
* [http://ift.tt/2Fs1IE4 Evocació d'Abu Yahya (Evocation of Abu Yahya)] by Llorenç Vidal Vidal (in [[カタルーニャ語|Catalan]]).
[[Category:マヨルカ島出身の人物]]

http://ift.tt/2G5qbjz

注目の投稿

Wikipedia-FAN

 Wikipedia-FAN 【外部リンク】 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF) ファン (曖昧さ回避)...

人気の投稿