2018年10月21日日曜日

意味調べる平田延胤

新規更新October 21, 2018 at 05:08PM
【外部リンク】

平田延胤


Greenland4: 平田鐵胤・気吹舎それぞれ一部を改変転記のうえ、出典より加筆して立項


'''平田 延胤'''(ひらた のぶたね、[[文政]]11年([[1828年]])[[9月 (旧暦)|9月]]) - [[明治]]5年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1872年]][[3月3日]]))は、[[江戸時代]]末期から[[明治時代]]にかけての[[日本]]の[[国学|国学者]] <ref name=kotobank>[https://ift.tt/2q5Ol65 コトトバンク「平田延胤」]</ref>。[[出羽国]][[久保田藩]]士<ref name=kotobank/>。[[平田銕胤]]の長男([[平田篤胤]]の娘千枝とのあいだの子)。

== 人物略歴 ==
祖父篤胤譲りの激しい気性の人物だったといわれる<ref name=jinmei476>[[#人名|『秋田人名大事典 第2版』「平田銕胤」(2000)p.476]]</ref>。[[黒船来航]]によって日本社会が動揺するなか、従来の《[[将軍]]-[[大名]]、[[藩主]]-[[家臣]]、家臣-奉公人》といった封建的主従関係よりも、[[天皇]]・[[朝廷]]を軸とした国家的まとまりの方が肝要であると説く平田国学の基本的な考え方は、各地の[[武士]]層によって強い関心をもってむかえられるようになった<ref name=rekihaku>[https://ift.tt/2R3000W 歴博・ほっとひと息・展示の裏話紹介]</ref>。

[[文久]]元年([[1861年]])の[[ロシア軍艦対馬占領事件]]に際しては、銕胤・延胤父子の主宰する江戸の気吹舎のもとに膨大な[[対馬]]情報が集められた<ref name=miyaji242>[[#宮地1|宮地『幕末維新変革史・上』(2012)pp.242-245]]</ref>。ここでは、[[イギリス]]と[[ロシア]]が共謀して日本の領土主権を侵しているかのように把握された<ref name=miyaji242/>。この頃より、気吹舎では、武士からの入門者が急増する一方、そのなかから[[尊王攘夷]]運動の一翼をになう人物が現れるなど学塾の政治化が急速に進んだ<ref name=rekihaku/>。[[明治維新]]の功労者である[[西郷隆盛]]も再三、江戸の気吹舎を訪れている<ref name=rekihaku/>。気吹舎は、全国の政治情報がおのずと入ってくるセンターとなっていき、延胤もまた、平田国学者の政治的理論的指導者として成長を遂げていった<ref name=rekihaku/>。

文久2年([[1862年]])、久保田藩の隠密御用という役目を受けた父に同行して[[京都]]にのぼり、当時、「草莽の国学」として全国的にさかんだった平田国学の重鎮として[[朝廷]]の内情にも通じ、京都の政局を国許に報じるなど、秋田勤王派に多大な影響をもった<ref name=jinmei476/>。文久3年([[1863年]])、久保田藩主[[佐竹義堯]]に[[江戸幕府]]の討滅を主張する、いわゆる「飛龍回天」の建白書を提出して、言旨激越として譴責処分を受けた<ref name=jinmei476/>。同年、父銕胤とともに[[中山道]]を経て江戸へ帰るが、その途中、[[美濃国]][[中津川市|中津川]]宿で門人たちに熱烈な歓待を受けた<ref name=miyaj104>[[#宮地2|宮地『幕末維新変革史・下』(2012)p.104]]</ref>。そのなかには[[島崎藤村]]の父、[[島崎正樹]]も加わっていた<ref name=miyaj104/>。[[戊辰戦争]]では官軍側として活動した。

維新後の[[明治]]2年([[1869年]])、[[神祇官|神祇]]権少佑、3年に少佑に進んで宣教判官を兼務、さらに同年宣教権大佑に任じられた<ref name=jinmei476/>。[[明治天皇]]の侍講も務めた<ref name=jinmei476/>。著書に『開国通商交易神考』などがある<ref name=jinmei476/>。明治5年1月死去<ref name=kotobank/>。享年45。その死によって、気吹舎の収入(書籍発行部数)・入門数が格段に落ち込んだとみられる<ref name=yoshida> [https://ift.tt/2q2NvHi 吉田麻子 『研究発表 国学者平田篤胤の著書とその広がり』 国際日本文学研究集会会議録,(28),77-95 (2005-03-01) ]</ref>。

== 親族 ==
* [[平田篤胤]](祖父):[[国学]]の大家。[[復古神道]]を創始。
* [[平田銕胤]](父):[[伊予国]]出身。[[気吹舎]]2代目。
* [[碧川篤胤]](叔父):銕胤の実弟。[[生田万]]とならぶ平田塾二大高弟のひとり。
* 平田胤雄(弟)

子孫は東京都文京区に在住。

=== 母千枝 ===
篤胤の娘で、銕胤の妻となった千枝は、婚姻後に実母綾瀬の名を継いだ。才女として知られ、一度目に通したものはすべて諳んじ、父篤胤の著述については、何を尋ねてもすらすら答えることが出来たという。[[英語]]もたしなみ、文章も巧みで文字は美しく、父の詠んだ[[和歌]]を[[短冊]]に代筆している。臨終のとき、きちんと正座して皆に臨終の挨拶をして、それではと床につき、そのまま帰幽したといわれる。

== 系譜 ==
<pre>
                     ┏平田延胤
                     ┃
大和田祚胤 …平田篤胤━━━━千枝     ┃
               ┣━━━━━┃
             ┏平田銕胤   ┗平田胤雄
             ┃(碧川篤眞)       
碧川武左衛門…碧川良正━━┫             
             ┃
             ┗碧川好尚
</pre>

== 脚注 ==


=== 注釈 ===


=== 出典 ===


== 参考文献 ==
*
*
*

== 関連項目 ==
* [[気吹舎]]

== 外部リンク ==
* [https://ift.tt/2q5Ol65 コトトバンク「平田延胤」]
* [https://ift.tt/2q2NvHi 吉田麻子 『研究発表 国学者平田篤胤の著書とその広がり』 国際日本文学研究集会会議録,(28),77-95 (2005-03-01) ]([[国文学研究資料館]] 学術情報リポジトリ)
* [https://ift.tt/2R3000W 歴博・ほっとひと息・展示の裏話紹介]([[国立歴史民俗博物館]])




[[Category:平田篤胤]]
[[Category:国学者]]
[[Category:19世紀の学者]]
[[Category:久保田藩の人物]]
[[Category:武蔵国の人物]]
[[Category:1828年生]]
[[Category:1872年没]]

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