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藪内流隨竹庵
Rj8888: 新規記事: 日本の旧家, 茶道, 流派, 茶家, 歴史, 文化, 芸術
庵号を'''隨竹庵'''(ずいちくあん)とする'''福田家'''(ふくだけ)は日本の茶家の一つ。 元は加賀前田藩大聖寺候の藩医であり、茶頭を務めた初代・鳶斎以後、現在に至るまで代々[[藪内流]]の茶道を伝える。 現在は、三代・休々斎が隠棲した大阪の地に庵を構える。
== 藪内家との関係 ==
隨竹庵(福田家)は、茶道[[藪内流|藪内家]]の分家である。 福田家は元々[[加賀藩|加賀前田藩]]大聖寺候において藩医を務めた家系であり、初代隨竹庵を号した鳶斎は福田家の八代目であった。その後、代々隨竹庵を号すが、藪内九代・宝林斎が早世したことに伴い、当時三代隨竹庵であった休々斎に白羽の矢が立ち、藪内家に招かれ婿養子となり、十代藪内紹智を継承した。
休々斎はその後、宝林斎の遺した二人の男子を養育し、長男に十一代を継承させたのち大阪へ隠棲。次男を福田家の養子とし、隨竹庵を継承させた。 これが、四代隨竹庵・[[藪内節庵]]である。 これにより隨竹庵は実質的に藪内家の分家となり、節庵以降、隨竹庵は代々直系の子に継承されている。当代である七代・竹弌は節庵から見て玄孫にあたる。
なお、茶道界において、宗家の男子が二人以上いる場合、次男以下を分家化させることが通例である。長男が何らかの理由で継承できなくなるなど、家元不在の状況になりかねない場合、分家に家元を継承させるためである。但し、殆どの場合分家は一代限り、もしくは二代目までしか継承されない。 隨竹庵は、四代隨竹庵・藪内節庵の子孫が代々継承しており、分家として非常に稀なものである。
== 歴代 ==
=== 初代 ===
【号】鳶斎・宗英・瓢庵
【生没年】[[宝暦8年]]([[1758年]])-[[文政11年]]([[1828年]])
加賀前田藩大聖寺候の藩医。茶湯を藪内七代・桂陰斎に受け、奥義を極め、藩の茶頭となる。[[松平治郷|松平不昧]]公とも深く親交。以後、代々隨竹庵を号す。
=== 二代 ===
【号】取此斎・遠叟
【生没年】[[文化元年]]([[1804年]])-[[文久元年]]([[1861年]])
鳶斎の子。加賀前田藩大聖寺候の藩医。藪内八代・真々斎のもと奥義を極め、茶頭を継承する。歌道にも優れ、能筆を以って知られた。
=== 三代 ===
【号】[[藪内流|休々斎]]・竹翠・雲脚
【生没年】[[天保11年]]([[1840年]])-[[大正6年]]([[1917年]])
取此斎の子。加賀前田藩大聖寺候の藩医、茶頭。藪内九代・宝林斎の没後、藪内家に迎えられ藪内十代を継承、'''竹翠紹智'''を号す。その年(明治11年)、北野大茶会を再興。のちの透月斎と節庵を養育し、晩年は大阪に隠棲した。
=== 四代 ===
【号】[[藪内節庵|節庵]]・市隠斎・竹友・宗延
【生没年】[[明治元年]]([[1868年]])-[[昭和15年]]([[1940年]])
藪内九代・宝林斎の子。休々斎の隠棲に伴って福田家に入り、隨竹庵を継承した。茶道具の鑑定、茶室・茶庭の設計に精通。綱町三井倶楽部の庭園など、現在も残る数多くの日本庭園・茶室の設計を手掛けた。門下に野村徳七、村山龍平を抱えるなど、当時の財閥、数寄者と流派を超えて広く交流し、近代茶道の隆盛に大きく貢献した。
=== 五代 ===
【号】静修斎・竹要・隨竹
【生没年】[[明治32年]]([[1899年]])-[[昭和43年]]([[1968年]])
節庵の子。大正11年に壬戌会を発足。キリシタン大名を偲び、昭和33年にクリスマス茶会を催す。作画に優れ、茶道具の鑑定にも精通した。
=== 六代 ===
【号】竹有・宗羐
【生没年】[[昭和6年]]([[1931年]])-
静修斎の子。先代よりクリスマス茶会を引き継ぎ、茶道具をはじめ菓子の意匠の製作に尽力。開催50周年および60周年に際して「炉辺異風の楽しみ」を出版。和洋問わず骨董の鑑定に精通。西洋の骨董も積極的に茶道に取り入れ、現代の茶道に大きく影響を与えた。
=== 七代(当代) ===
【号】竹弌
【生没年】[[昭和63年]]([[1988年]])-
竹有の孫。平成4(1992)年、重文・西尾家住宅での記念茶会にて初披露目。その後、竹有の指導のもと茶湯を研鑽。平成29年(2017)年より能楽観世流・上田宜照氏とのコラボレーション「幻點」を催している。同年11月、六代・竹有の引退に伴い隨竹庵を継承し、現在に至る。
== 藪内家との関係 ==
隨竹庵(福田家)は、茶道[[藪内流|藪内家]]の分家である。 福田家は元々[[加賀藩|加賀前田藩]]大聖寺候において藩医を務めた家系であり、初代隨竹庵を号した鳶斎は福田家の八代目であった。その後、代々隨竹庵を号すが、藪内九代・宝林斎が早世したことに伴い、当時三代隨竹庵であった休々斎に白羽の矢が立ち、藪内家に招かれ婿養子となり、十代藪内紹智を継承した。
休々斎はその後、宝林斎の遺した二人の男子を養育し、長男に十一代を継承させたのち大阪へ隠棲。次男を福田家の養子とし、隨竹庵を継承させた。 これが、四代隨竹庵・[[藪内節庵]]である。 これにより隨竹庵は実質的に藪内家の分家となり、節庵以降、隨竹庵は代々直系の子に継承されている。当代である七代・竹弌は節庵から見て玄孫にあたる。
なお、茶道界において、宗家の男子が二人以上いる場合、次男以下を分家化させることが通例である。長男が何らかの理由で継承できなくなるなど、家元不在の状況になりかねない場合、分家に家元を継承させるためである。但し、殆どの場合分家は一代限り、もしくは二代目までしか継承されない。 隨竹庵は、四代隨竹庵・藪内節庵の子孫が代々継承しており、分家として非常に稀なものである。
== 歴代 ==
=== 初代 ===
【号】鳶斎・宗英・瓢庵
【生没年】[[宝暦8年]]([[1758年]])-[[文政11年]]([[1828年]])
加賀前田藩大聖寺候の藩医。茶湯を藪内七代・桂陰斎に受け、奥義を極め、藩の茶頭となる。[[松平治郷|松平不昧]]公とも深く親交。以後、代々隨竹庵を号す。
=== 二代 ===
【号】取此斎・遠叟
【生没年】[[文化元年]]([[1804年]])-[[文久元年]]([[1861年]])
鳶斎の子。加賀前田藩大聖寺候の藩医。藪内八代・真々斎のもと奥義を極め、茶頭を継承する。歌道にも優れ、能筆を以って知られた。
=== 三代 ===
【号】[[藪内流|休々斎]]・竹翠・雲脚
【生没年】[[天保11年]]([[1840年]])-[[大正6年]]([[1917年]])
取此斎の子。加賀前田藩大聖寺候の藩医、茶頭。藪内九代・宝林斎の没後、藪内家に迎えられ藪内十代を継承、'''竹翠紹智'''を号す。その年(明治11年)、北野大茶会を再興。のちの透月斎と節庵を養育し、晩年は大阪に隠棲した。
=== 四代 ===
【号】[[藪内節庵|節庵]]・市隠斎・竹友・宗延
【生没年】[[明治元年]]([[1868年]])-[[昭和15年]]([[1940年]])
藪内九代・宝林斎の子。休々斎の隠棲に伴って福田家に入り、隨竹庵を継承した。茶道具の鑑定、茶室・茶庭の設計に精通。綱町三井倶楽部の庭園など、現在も残る数多くの日本庭園・茶室の設計を手掛けた。門下に野村徳七、村山龍平を抱えるなど、当時の財閥、数寄者と流派を超えて広く交流し、近代茶道の隆盛に大きく貢献した。
=== 五代 ===
【号】静修斎・竹要・隨竹
【生没年】[[明治32年]]([[1899年]])-[[昭和43年]]([[1968年]])
節庵の子。大正11年に壬戌会を発足。キリシタン大名を偲び、昭和33年にクリスマス茶会を催す。作画に優れ、茶道具の鑑定にも精通した。
=== 六代 ===
【号】竹有・宗羐
【生没年】[[昭和6年]]([[1931年]])-
静修斎の子。先代よりクリスマス茶会を引き継ぎ、茶道具をはじめ菓子の意匠の製作に尽力。開催50周年および60周年に際して「炉辺異風の楽しみ」を出版。和洋問わず骨董の鑑定に精通。西洋の骨董も積極的に茶道に取り入れ、現代の茶道に大きく影響を与えた。
=== 七代(当代) ===
【号】竹弌
【生没年】[[昭和63年]]([[1988年]])-
竹有の孫。平成4(1992)年、重文・西尾家住宅での記念茶会にて初披露目。その後、竹有の指導のもと茶湯を研鑽。平成29年(2017)年より能楽観世流・上田宜照氏とのコラボレーション「幻點」を催している。同年11月、六代・竹有の引退に伴い隨竹庵を継承し、現在に至る。
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